古本あぶらやのあぶらや日常

      ................あまり難しいことは聞かないで下さい

世界を僕らのために つくりかえる その日まで

チボリオーデイオ「日本映画縦断」についての話を続けたい。
「日本映画縦断2 /異端の肖像」を読んで、1974年のマレーネ・デートリッヒの訪日の仕掛け人が竹中労さんであることを教えられた。その経緯を記した「君は、マレーネ・デートリッヒを見たか?」はすぐれて、美しいルポルタージュである、と書いても、普通は読むことはできないと思うので「古本あぶらや」に読みに来てください。(立ち読み可。但しヒマな店主の話し相手になっていただきます)

 この文章によって、歌手としての彼女の持ち歌の代名詞となっている彼女の「リリー・マルレーン」(このルポの中では、彼女はトウキョウのリッチマンの前では決してこの歌を歌おうとしない。この名曲を舞台で歌わない彼女と主催者側の竹中労さんとのせめぎ合いが、スリリング、かつ感動的である)の歌詞は、第二次世界大戦の対独戦に参加した連合国側の兵士への慰問中に、彼女自身が元歌を書き換えたもので、彼女は戦後も時には、その歌詞のままの「リリー・マルレーン」を歌っていたということを知った。ウィキペディアなどではこちらの歌詞は記されていない。資料的な価値もあると思うので、ここで引用しておきたい。
  
  ねむれない夜
  兵舎の表に 標識灯が揺れる
  待ちつづける君 そして僕
  世界を僕らのために
  つくりかえる その日まで
  長いこの夜が終わるまで
  そして逢おう リリー・マルレーン
  愛しの リリー・マルレーン

 彼女が徐々に近づく祖国の匂いを感じながら、連合国の兵士たちの前で、「世界を僕らのために、つくりかえる、その日まで」と歌う姿を思うと、慄然とした気持ちになる。目前の兵士たちはやがて彼女の父母の地に足を踏み入れ、そして多くの人が死ぬだろう。それでも私は歌う、という強烈な意志がここにある。すごい人だと思う。ともかく、めそめそ、じめじめのわが国には生まれないメンタリティである。良し悪しをここでは考えないことにするが。

 話が音楽に流れたので、今回は店に置いてある小さなラジオについて少し書きたい。

 店の神棚に置いてある「あぶらや」唯一の音響設備であるこのラジオは、チボリ・オーディオ社の「モデル・ワン」というモノラル・ラジオである。外形は縦11センチメートル、横21・3センチメートル。スピーカーは7・6センチメートルのものをひとつ内蔵している。開発者はドルビーBノイズリダクションの普及にその功ありといわれ、全米家電協会が選ぶオーディオ会の殿堂五十人のうちの一人にも選ばれた業界の巨人ヘンリー・クロス氏による晩年の作品であると資料に記されている。

 ヘンリー・クロス氏というのは、戦後のハイファイ・オーディオ業界を牽引した一人であり、革新的な数々の名スピーカーを生み出し、世界初のプロジェクションテレビ(懐かしいですなぁ)でエミー賞を受賞。その後に引退したが、2000年、七十歳にして、突如チボリ・オーディオ社を起こし現役に復帰。最後の作品であるモノラル・ラジオ「Model One Radio」を発表したあと、2002年に死去。そしてこのラジオは、発表と同時に評判になり、ロングセラー商品として根強い人気を得ているという。

 このラジオを購入したのは、パソコン用に小さなスピーカーを買いに行って、何となく気に入り、インターネットでこの商品の誕生のいきさつを確認したからだった。(この機器には、外部入力端子があるので、もちろんCDプレイヤーなどの外部機器とつなぐこともできる)

 わたしたちの世代は、高音質な音響システムとは、まずステレオであることだと教えられてきた。包みこまれるような音響、かってない立体感、4チャンネル、サブ・ウーファー、サラウンド・システム。音楽を聴くための機器の性能の良し悪しの目安は、そんな言葉に左右されてきた。ところが、その流れを担ったといっていい音響機器開発の職人のひとりが、最後に木組みの小さなモノラル・ラジオを作ってこの世界から去っていった。その事実は、まるでわれわれに対する「なぞかけ」のようにも思える。スタイルと音質で決めたことも事実ではあるが、その「なぜ」も、このラジオを購入した動機のひとつだった。

 さて、このラジオから流れる音質だが、初めてこのラジオから音が流れた時に、スピーカーからは、体温のある音があふれ出て、ラジオに近いほうの片方の耳にそそぎ込まれた。クリアーで不足のない音質だった。そしてその時に感じたのは、その小さなスピーカーから音が確かに聞こえてくることを認識できるという安心感だった。このラジオに慣れてしまうと、例えば本を読んでいるときに、音楽が左右から両耳にほうり込まれることが、ひどく、うっとうしく感ぜられるようになった。つまりこのラジオは、そしてここから流れでてくる音は、「どうぞ他の仕事もやっていてください、音を聞くことばかりに集中しなくてもいいですよ」と云ってくれている気がするのである。

 片耳でマレーネの「リリー・マルレーン」を聴きながら、今、この一文を書いている。時に耳をかたむけ、時に音楽を聴いていることを忘れる。日常でラジオから音を流しているというというシュチエーションを念頭において、よく考えてつくられている機械なのだと思う。

 そこで思い出すのは、「家ではいつでもラジオが流れていた」というウッディ・アレンの少年時代の思い出に満ちた映画「ラジオ・デイズ」の台詞である、もしかしたら、ヘンリー・クロスという名の老職人は、まだ人の社会にぬくもりがあった時代、遠い昔のラジオ・デイズへの思いをこの小さな道具に託したのかもしれない。このラジオから流れる音楽を聴いていると、そんなふうに思ったりもするのである。


 ※蛇足ながらご説明。上記の写真のModel One Radioに寄りかかっているのは、うちのゲンバノジョウ(2017年6月7日および6月15日投稿参照)
[ 2017/10/21 18:28 ] あぶらやにあるもの | TB(-) | CM(-)

映画について語った時に、彼が語ったこと

日本映画縦断今週の初め、十条のシネカフェ・ソトでおこなわれた「シネトーク 晋也と俊雄の映画塾 Vol.14」に顔を出してみた。この会には、これまで二度ほど足を運んでいるが、このトークライブは週末に行われることが多く、最近は店番があるので予約ができなかったのだが、今回は祭日(体育の日)に行われたので、久しぶりに予約をして出かけてみた。
 イベントは、五月から始まった「映画はじめて物語」の三回目だそうで、一回目が技術、ジャンル等、様々な映画のはじめて物語、二回目はカラー映画の登場、そしてこの日はシネマスコープの時代についてのライブ・トークということだった。当日は、NHKBSの映画解説でおなじみの渡辺俊雄さんと“カントク”の山本晋也さんが、シネマスコープの第一作「聖衣」から語りおこし、画面のワイド化が映画に何をもたらしたかについて二時間たっぷり話をしてくれた。考えてみると、シネマスコープその他のスクリーンの大型化だけにテーマを絞るというのは、かなりマニアックなのではあるが、二人の掛け合いが面白く、あっという間に〆の時間になった。この会の会費は1,800円。次のシネトークは12月初めということなので、興味を持たれた方は、お店のホームページをご覧なっていただきたい。
 こういったイベントをおこなうこの店もそうなのであるが、十条という街の周辺には、帝京大学、東京成徳大学、東京家政大学の短期部があり、昔に比べて若者も多くなり、これまではなかったタイプの店が少しずつ増えているようである。管見するならば、この街の今後は、昔ながらの商店街に新しい店が加わり、お互いが共存しながら発展してゆくのだと思う。例えば、ビアバーのBeer++や、日本酒バーのサケラボトウキョウなどは、これまでの十条では考えられなかったタイプの店であろう。
 話は戻って、トーク・ショーの中で山本晋也さんが、突然、石原裕次郎から電話があって、西部警察が最近マンネリ気味なので監督を引き受けてもらえないか、と云われたことを思い出として話をしていた。あの時、オファーを受けていれば、俺の人生も変わっていたかもしれない、とカントクは笑っていたが、あぶらやは、どこに向かいたかったんだよ、裕ちゃん、と心の中で思わず叫んだな。

 映画の話を続けると、探していた竹中労さんの「日本映画縦断」三部作を五反田の南部古書会館で手に入れて、ここ数日、読んでいる。

「虚無も残酷も、そして抵抗も、時代と大衆の娯楽である、という当然の認識を、映画産業はいま(1973年から1974年の日本映画)見失っている」
「人びとは希望を慰籍とはせず、かえって絶望を娯楽としたのである」

 例えばこの二つの文章を抜粋しただけでも、そのエッセンスをうかがい知ることができると思う。この本で竹中労さんは、人々が熱狂のうちに受け入れた映画にこそ、人が映画に何をもとめるかを知る手掛かりがあるのだという視点で、正史から切り捨てられた戦前の娯楽映画を再評価しようとした。そのうえで(書中の言葉で云えば「何が人びとの愉しみ、慰めであったかを、考える」ことで)日本映画の本来の実像にせまろうとしたのだと思う。
 それにしても「絶望こそ娯楽」という言葉の太刀筋はひどく鋭い、と思う。著者の渾身ともいうべきこの刺激的な試みは、上梓された三冊の本を残して連載中絶となった。つくづく惜しいと思う。

 十条での出来事と云えば少し前にこんなことがあった。昔から知っている居酒屋で熱燗を頼んだところ、チンという音がして、若い女の子がお銚子を持ってきた。どうぞといいながら、盃に酌をしてくれようとした。すると、温度が高くなりすぎていたからか、ごぼごぼという音とともに酒が勢いよくお銚子から噴き出して、カウンターが酒びたしになった。こちらの身体に熱湯の温度に近い酒がかかっていたかもしれないと思うと、ちょっとぞっとした。女の子は、もしかしたら、やけどをさせていたのかもしれないなどという想像力など働かないらしく、とおりいっぺんの詫びを入れて引っ込んでしまった。
 酒をレンジでチンするのも、できれば勘弁してほしいが、手で持った時に酒の熱さに気付かないこともおかしい。自分がしてしまったことが、一歩間違うと大事になってしまったという想像力をもたずに仕事をしているのもけしからん。だいたい、日本人の仕事というものから、心を用いた仕事がどんどん失われているように思う、と古くからの友人に話したところ、
「そりゃそうだよ、安倍首相が一億総活躍時代といっていただろう。一億総活躍とは、すなわち、一億総シロウト時代ということだ。これからそんなことばかりになるよ、覚悟しておいた方がいい」
 と云われた。
 一億総シロウト時代。巳んぬるかなという外はない。


あぶらやに置いてある本

日本映画縦断  竹中労 白川書院

1   傾向映画の時代   1974年刊行
 2   異端の肖像     1975年刊行
 3 山上伊太郎の世界  1976年刊行

当店販売価格 三冊揃いで9,000円 (うちに置いても絶対に売れないと思いながら、自分が読みたくて、ついつい仕入れた。ただいま吟味中)

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[ 2017/10/14 22:25 ] あぶらや日常 | TB(-) | CM(-)

ノーベル賞を辞退せよ

ノーベル賞
 ノーベル賞ウィークということなので、それにちなんだ本をご紹介したい。

「そうだ、あなたにお伝えすることがあったのですよ、ニキタ・セルゲイビッチ」とセーロフが言った。(中略)「今年のノーベル文学賞はボリス・パステルナークに決まったらしいのです...ほら、例のドクトル・ジバゴですよ」
「何だって?」物思いに沈んでいたフルシチョフは、将軍の言葉にふと我に返った。

 これはユーリー・クロトコフの「ノーベル賞」の導入部分である。物語は1958年のパステルナークのノーベル文学賞辞退事件、つまり、当時のソビエトの最高権力者であったニキータ・フルシチョフによる、ボリス・パステルナークに与えられたノーベル文学賞授与を阻止するために行われた政治的圧力とその行方を描いたものである。
 はなしは、パステルナークの長編小説「ドクトル・ジバゴ」がソビエト本国での出版を拒まれ、イタリアで出版されたことに端を発する。パステルナークの「現代風の叙情的な詩、および大ロシアの歴史的伝統に関する分野における、彼の重要な功績に対して」ノーベル文学賞が送られたのは、「ドクトル・ジバゴ」の出版の翌年であり、これを西側諸国からのソビエト共産主義に対する“ゆさぶり”と確信したフルシチョフは、さまざまな策謀をめぐらせ、この老詩人を過酷な立場に追い込んでゆく。
 ただし、フルシチョフは、この状況が世界の耳目を集めていることを理解していたし、また政治家としての彼は、スターリンの銃殺と強制収容所の時代を批判した立場にあったため、この「人民の敵」に対しては、ソフト・ランディングともいうべき方針<ノーベル文学賞受賞の辞退と彼の一族の亡命>という道を用意せざるをえなかった。そして、そのための迫害が行われた。それは以前にはなかった種類の迫害、真綿で締めあげられるような迫害というべきものであった。
 共産党の機関紙「プラウダ」の社説がパステルナークへの怒りの声で溢れかえる事からそれは始まった。街では、フルシチョフその人が、こぶしを振り上げてパステルナークを糾弾するニュース映画が上映された。次に、手紙が送られてきた。作家同盟からの召喚状であった。すでに諮問会議で彼に貼られるレッテルも決まっていた。<売国奴、まむし、寄生虫、裏切者...>数日後には、彼の家のまわりを群衆が取り囲んだ。プラカードには次のような言葉が書かれていた。<わが国からユダを追い出せ>
 じわじわと追いつめられて、また批判と攻撃に疲れきったパステルナークは、ノーベル賞辞退を決断して、ストックホルムにその旨の電報を送った。彼はしかし祖国を捨てることができず、亡命については思いとどまった。パステルナークは、すべてを解決できるはずの亡命を選ばずに、より困難な道を選んだ。祖国の土を捨てられぬという詩人の魂がその道を選ばせたのかもしれない。彼が肺がんで死去したのはその二年後であり、それから四年後にフルシチョフは失脚した。

 フルシチョフは文学の価値を理解しない、あるいは理解できない人間であったし、かたやパステルナークは政治性のほとんどない人間であった。接点のないもの同士がノーベル文学賞受賞という出来事によって向き合わざるを得なくなった。それがこの事件の不思議な性格である。神を信じない唯物論者である政治家と空と土を愛した抒情詩人が、たまたま出会った旅人のように、お互いの顔を確認し別れた。つまり、ノーベル文学賞受賞辞退という事件は、ノーベル文学賞受賞という事実を、そんなことはなかったのだということにした事件であった。「ノーベル賞」の最後には、政治生命が終わり一市井人となったフルシチョフが、ふと本棚から「ドクトル・ジバゴ」を見つけ、それを熱心に読み感動するという場面が用意されている。それはある意味で、物語としては当然の帰結であると云える。
 フルシチョフがもたらした「雪どけ」という短い期間は、ソビエトの歴史の奇妙な端境期である。粛清と停滞の間の季節に種がまかれ、十二年間で三人のノーベル文学賞作家が生まれた。最初の受賞者は、受賞を辞退して隠遁者としての死を迎え、二番目の受賞者は国民作家として穏やかな余生を送り、三番目の受賞者は国外追放の処分を受け、祖国への帰還を願い戦い続けた。巨大な栄誉は、それだけ大きく人の生きる道を変えるものなのかもしれない。
 蛇足ながら、フルシチョフも、党の監視下にあった晩年には、その人生の回想録をアメリカで出版した。しかしその回想録に対して、何らかの栄誉が与えられたということはなかったようである。

あぶらやに置いてある本

ノーベル賞 ユーリー・クロトコフ 山本光伸訳 新潮社 1981年刊行
 当店販売価格 600円

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[ 2017/10/08 09:18 ] あぶらや日常 | TB(-) | CM(-)

赤羽エレジー

まるますや先日の秩父からの帰途は、池袋駅に午後3時前に着いた。先週はふれなかったけれども、少し飲みたくなったので、赤羽で下りて一番街に行ってみた。赤羽はうちから歩いて20分余りの場所であって、一番近い盛り場ということになる。
 最近すっかり著名になってしまった地元の名物店「まるます家」で、久しぶりに腰を落ち着けようと思っていた。ところが、行ってみると店はほぼ満員であり、今日は確かに平日だよなと思いながら、山登りのザックをダンボールの箱の上に置かせてもらって、空いている席のひとつに腰を下ろした。
 赤羽の飲み屋の客層も変わった。この店をぐるりと見渡しても、昔の年配層が8割、若年層が2割といったお客の比率が、今では6割4割りぐらいである。若い女の子も多い。その分、にぎやかさの質が依然とは違っている。そんなことを思いながら、ニッカの小瓶と炭酸を頼んで、ハイボールにして飲むと、昼のうちに10キロ以上歩いていたため、酔いのまわりがひどくはやい。こんなふうに陶然として「まるます家」で飲んでいると、今の目の前の光景が溶暗して、高村光太郎が「米久の晩餐」で描いた明治の酒宴の喧騒が脳裏に浮かび上がってくるように思える。

 ぎつしり並べた鍋台の前を
 この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
 正直まつたうの食慾とおしやべりとに 今歓楽をつくす群衆
 まるで魂の銭湯のやうに
 自分の心を平気でまる裸にする群衆
 かくしてゐたへんな隅隅の暗さまで すつかりさらけ出して
 のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆

 この詩の情景とこの店の雰囲気がよく似ているように思えて、ここに来るといつもこの詩を思い出す。それにしても「魂の銭湯」っていうのは名表現だなと思っていると、いつの間にか、店のそとに4、5人のお客さんが並んで立っていた。後ろで待たれると落ち着いて飲めない。早々に切り上げることにした。左右のワカモノたちは、居並ぶ人たちを背にして、空いた皿、飲みほした酒を前に置いて、我、関せずという体である。これも現代の「自分の心を平気でまる裸にする群衆の姿」なのであろう。
 席を立つと、焼き場の店員と目が合った。店のポップに目をやりながら
「ウナギ弁当も二千円かぁ、きびしい値段だねぇ」
と云うと
「そうなんですよ、一番安いときは千円でした」
という返事が返ってきた。それでもウナギの価格の高騰を考えると、この価格はかなり無理をした値付けなのかもしれない。
 
 その後、人だかりがしているおでんの「丸健水産」の横を通り、紅谷書店の店先をのぞいてみた。この赤羽の老舗古本屋も、店売りの本は、店先のほんの小さな一角だけに置くばかりになっている。あらためて周囲を見渡すと、アーケードの下は、ほとんど飲み屋だらけになっている。そうではない店は肩身が狭そうに見える。ここにあるのは、酒を飲む場所ばかりが増えてゆくという、不自然でいびつな繁栄であり、マスコミがセンベロセンベロと囃している声に、街そのものが、赤い靴の娘のように、停めることのできないダンスを踊らされているように思えた。そのあたりの店の前を歩いてみると、ちょうど、それぞれの店では、夕方の開店に向けての準備が始まっていた。昔なじみの店は、ほとんど姿を消していた。
 十年ほど前は、昼間からよく「まるます家」で酒を飲んだ。あの頃はひどく鬱屈していた。索漠とした気持ちで、自分の人生は間違いだったのだろうかと問いかけていた。十年の間に いろいろな事があった。この街の風景もずいぶん変わった。無分別なマスコミにいじられて、活気はあっても、かっての情緒は失われつつあるように思われた。

 やがて「丸健水産」の前まで戻ってくると、「お酒におでんのダシを足してください」という女の子の声が耳に飛び込んできた。そういえばテレビなどで、この店のおでんのダシ割り(カップ酒を少し残して、そこにダシ汁をつぎ足して飲む)が取り上げられて、ダシ汁がやたらとお替りされるようになり、店の方も困ってしまって、やがてダシ汁のお替りが50円になったのであった。そういうことも、どうもいやだ、と思いながら、視線を店に向けると、赤いバンダナを頭に巻いた主人が、手に持ったお玉からおでんのダシ汁を滝のように豪快に滴らせて、四〇センチほど下のところで、もう一方の手で握った酒のカップの中にそそぎ込んでいた。
「こうするとよく攪拌されるんだ。はい、50円」
「わーつ、すごい、かっこいい」
 それはまるで、おでんのダシ汁のエスカンシア(ググってください)である。少しあっけに取られて、それからこの新しい工夫に敬意を表したい気持ちになった。わけのわからないものに、やみやみと呑み込まれてたまるか、という意地のようなものが感ぜられて、含み笑いをして通り過ぎた。カンバレ、わが街。


 あぶらやに置いてある本

 智恵子抄(文庫) 高村光太郎  角川文庫 1999年刊行
  当店販売価格 200円

 高村光太郎の友人であった草野新平さんは、「智恵子抄」に智恵子が凶暴性を発揮した場合の詩がないことを惜しんでいる。「抄」とは省かれたものがあることを明示しているタイトルであり、そこに構成の強い意志を感じるというのが池内紀さんの説である。智恵子の全てでなく、智恵子抄であることを意識して読むと、例えば「自分の着物がぼろになる」という言葉の凄みが一段と読み手に迫ってくる。

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[ 2017/09/30 15:43 ] あぶらや日常 | TB(-) | CM(-)

樹林帯の中を

関八州今週の9月21日は予報が晴れだったので、久しぶりに山歩きをしたくなって、秩父へ足を運んでみることにした。
 早朝に家を出て、池袋から西武線で西吾野まで行き、高山不動尊を拝して、関八州見晴台に登った。当日は、やや雲はあったが、絶好の登山日和であり、このところ一日中晴れという日が少なかったということもあって、平日にしては登山者の数が多かったように思う。関八州見晴台からは、案内板によって視線の先にある山の名称がわかるようになっていて、それによって、関東平野が、幾重にも山稜に囲まれた土地であることを、あらためて実感することができる。稜線の遠近感が素晴らしく、その眺望は神秘的と云っていい。しかし、考えてみると、このような心惹かれる景色に出会える機会は、山登りの工程の中ではさほど多くはない。山に分け入った者のたいていの時間は、ただ視線を下にして足を進めることに費やされる。そう思うと、登山というものの魅力とはなんなのだろう、とふと考え込んでしまった。

 五時間ほど散策して、上り電車に乗って家に戻り、夕餉の後、店の本棚から新田次郎さんのエッセイ集※1を抜き出して読んでみた。
 登山から帰宅して、身体にひろがる疲れを感じながら、山について書かれた本を読むのはいいものである。昼間、たった800m足らずの低山を巡っただけでも、まだ自分の中に残っている山の余韻というべきものが、本の中にある山岳の世界へと、自然に自分を着地させてくれる。本は新田次郎さんの山のエッセイをまとめたもので、その中の「遅足登山」という随筆がとてもいい。
「いちがいに登山といっても、登山にかかるまではなかなかたいへんである」という述懐からこの短い文章は始まる。持ち物の準備、ルートの研究、天候に対する一喜一憂、シーズン中の列車の混雑、バスへのアクセス、登山道にたどり着くまでの道のりの長さ、それをクリアーしてやっと山に、本当にたどり着く。「この時の気持ちは、なんともいえぬほど晴れやかで」それからゆっくりゆっくりと登って行く。私の歩き方はきわめて遅く、初めてあった人は、どこかが悪いのかと。ときには心配して声をかけてくる。その分、私は途中で休むことなく登り続ける。「私はこの長い樹林帯の中をなんにも考えず黙々と歩くことが好きである」「ただ、足下を見つめながら黙々と歩くのである」「自然の美しさはさりげなくちらりと眼を投げるだけで、マイペースをくずさない」
 一方で、景色の楽しめる山歩きは、あまりにも気が散る対象が次々と目の前に現れて、本当の山歩きのよさは感じられなくなる、と新田さんは記している。このエッセイの結論は、「登山の醍醐味は樹林帯を頂上に向かって歩くことにあって、稜線歩き(ここには、この時視界に広がる景観も含まれる)はおまけみたいなものである」というものであり(この結論は先ほどの私の疑問に対する答えのひとつであるとも云える)、このあとで「多くの人はこじつけだといって信用してくれない」と結んでいる。このような山登りを、新田さんは「遅足登山」と名付けている。
 登山者、登山家にもいろいろな型がある。山に消えたクライマー列伝ともいうべき山際淳司さんの「みんな山が大好きだった」※2などで触れられている「山頂へのパッション」を持った殉教した英雄たちは、もちろん偉大な登山家である。その一方で、遅足登山を心がけ、そんなふうにして山行を味わう人も、また真っ当な登山家なのであって、その違いは自然に対する精神の純度の高さ低さによるものではない。自然から何を得るか、そこに何をもとめるかは、ひとそれぞれだから、登山スタイルもさまざまであるというだけのことなのである。それは、あるいはこう表現できるかもしれない。大いなるものを前にして、わたしたちの心に火が灯されるとしたら、その火を盛んに燃やし、走り去るように生きるひとがいる。それとは反対に、そのともしびを消さぬように、用心しながらゆっくりと歩を進めるひともいる。もちろん、それは英雄譚の道のりではない。そして、それはそれでいいのである。
 それにしても、「私はこの長い樹林帯の中をなんにも考えず黙々と歩くことが好きである」これはさりげないが、なかなかの名フレーズであると思う。どうであろうか。
 

あぶらやに置いてある本

※1 アルプスの谷アルプスの村 新田次郎  新潮社 1976年刊行
当店販売価格 600円

※2 みんな山が大好きだった(山男たちの死に方―雪煙の彼方に何があるか 改題)  山際淳司  中央公論社 1995年刊行
当店販売価格 400円

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[ 2017/09/24 00:40 ] あぶらや日常 | TB(-) | CM(-)